らくメンタルの教科書

「ガラスめんたる」から「らく(楽)めんたる」へ。実体験を中心にまとめています。

迎合するのは疲れる

「課題の分離」

きょうもこの考え方を意図的に用いることで、

また一つ自分の恐ろしいパターンに気づくことができました。

 

それは、

「無意識の迎合」

 

です。

 

どういうことかというと、

相手からなにか言われたり指摘を受けたりした時、

「無意識にあなたのおっしゃることはいいことですよ。」

というのを伝えようとしてしまう感じです。

 

本音では実はそんなこと思っていません。

はっきりいって「うざ」「それはあんたの価値観でしょ」

と感じています。

実際それぞれの価値観があるだけです。

 

でも無意識の方ではいつのまにか、

「でもこの人に嫌われると自分の立場が危ぶまれるかも」

という声がこだましていて、

「相手を怒らせないようにしよう」

みたいな対応をしてしまう。

 

それを超冷静に「課題の分離」ができていて、

この組織に対して貢献するために相手を喜ばせよう、

いい気持ちにさせてあげよう。

みたいな余裕のある感じだったらいいかもしれませんが、

そうではない。

 

 

つまり無意識に所属するところでの居場所を失うのが怖い、

この人から嫌われるのは怖い、

みたいな状況を作られてしまい、

無意識にそれに迎合することが正しいかのように感じてしまう。

 

実際、迎合することで問題から逃避することができてしまうから。

 

もし迎合しないで、

「どういう意味ですか?」

「なんでそんな感じな言い方で言うんですか?」

とか普通に切り返していたらどうなるか。

 

相手は

「こいつは理解力がないやつだ」

「こいつは(俺の価値基準をもとに)使えないやつだ」

「こいつは実は駄目なんじゃないか」

とか思うかもしれない。

なんせ、言ったことに素直にそうですねと反応しないから。

 

ましてや「どういうことですか?」

なんて聞いてくる。

 

すると、

「俺がこんなにわかりやすくいつも言っているのにわからないなんて、

 だめな人なんだろうな」

 

と評価する可能性が出てくる。

 

そしてそう相手に思われてしまうんじゃないか?

ととっさにものすごいスピードで無意識レベルで計算し、

 

「迎合しておこう」

 

という判断を脳が瞬時に下す。

そしてその場では何事もなかったかのように終わらす。

 

という感じでしょうか。

 

 

これはまさに「課題の分離」ができていない状態という

ことになると思います。

 

 

さらには、

仏陀の教え(仏教の教え)の中にある、

人が悩むのは「欲」があり、

その「欲」を満たすことができないときに悩んだり苦しんだりするのであり、

そしてそれは、

「怒り」や「さらなる欲」や「妄想」

という形で現れて来るそうです。

 

 

こういう反応をしたら相手はこういう風におもうだろうな。

自分のことをこう評価するだろうな。

という「妄想」

 

そしてそう評価してくる相手に対して、

ふざけんじゃねーよ、状況もよく知らないで勝手なこと言ってんじゃねえよ。

という「怒り」

 

このやろう、もっと人を認めろよ。

というか認めてこないやつのところにいても仕方ないから、

ちゃんと認めてくれる人のところにいくよ。

という「さらなる欲」(貪欲)

 

 

という3つのパターンに陥るようです。

 

 

心当たりありませんか?

私はがっつりと心当たりがありますし、

いま書いた3つのパターンも、

私の頭の中でかけめぐった思考を書き出したようなもんです。

 

 

そして、

相手が自分に対してどんな最終判断をするか、

をこちら(自分)が決めることはできるのだろうか?

 

 

影響を与えることはできるかもしれない。

 

 

でも

「相手が最終的にどう考えるか、感じるか、判断するか」

 

 

をこちらが

「決める」

ことはできそうにはなさそうじゃありませんか?

 

実際に無理だと思います。

誘導したり影響を与えることはできる、

という人もいるかもしれませんし、

私もそう思います。

 

でも最終的に決めるのは相手です。

 

 

そしてもう一つ大切なことをきょうも思い出しました。

 

「どのような判断をしようと、その判断の結果を受け取るのはその人である」

 

ということを。

 

ということは、

相手が私に対して「どう思うか」は自由です。

 

 

そして「どう思ったか」によって相手に「どのような未来が訪れるのか」

は相手に起こることです。

 

私におこることではありません。

 

であれば、

「相手がどう思うか」

は自分には関係ないと言ってもいいかもしれません。

 

いや、いいと思います。

 

もちろんその影響で、

その人が私に対してどのような態度をとるか、

というのはあります。

 

しかし、

そのときに「自分がどう思うか、捉えるか」

の結果をうけとるのはやはり自分です。

 

 

ということは

「相手がどう反応するか」

を考えて

「それに反応する」

 

ということは自由じゃないですよね。

完全に不自由。

 

なぜなら相手の反応で自分の反応をつくりだしているから。

 

 

それはどうなんだろう。

というのが仏陀の教えにも記されていますし、

ナポレオン・ヒルさんも

アンソニー・ロビンスさんも

数多くの賢者もおっしゃっていることだと思います。

 

人間は考える葦

 

という言葉もありますが、

自分のなかで主体的に考えたいですよね。

 

でもいつのまにか、

 

「周りの反応をみて、それに対応する」

ことで上手くいくことに慣れてしまっている。

 

結果、

実は不自由な世界に生きてしまっている。

 

ということでしょうか。

 

慈悲喜捨でいえば

「捨」

…自分のことと切り離して考える。

…欲、怒り、妄想を捨てる。

 

ということとつながると思います。

 

そして「捨」することができ、

 

相手がどう考えるか、どうしたいと考えているのか、

自分の反応を切りななしていく。

 

とても重要だと思いました。

 

とういことで本日もまた

きょうはこんな「課題の分離」

に直面した。

ということを日記的にかかせて頂きました。

 

 

あくまでも自己観察日記なのですが、

似た経験をしている方が、

これを読んで少しでも、

「こんな人もいるのか、おれはまだマシな方だな」

とか

「同じようなこと考えてる人いるんだな。なんかほっとした」

といった感じでお役に立てたらと思い、

また自分が書き続けるという強制力も作りたく、

ブログを使わせて頂いております。

 

 

本日も最後までお読み頂き、

本当にありがとうございます。

 

 

それではまた。

 

〜ZiHiKiSha〜